織田信長と徳川家康の絆は本物か?清洲同盟の真相と信康切腹の謎を追う

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天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、家康は駿河一国を加増され、安土城で信長から破格の歓待を受けました。歴史ファンの間で根強く囁かれる「本能寺の変における家康黒幕説」ですが、当時の客観的状況を追跡すると、その信憑性は極めて薄いと判断できます。

変が勃発した6月2日、家康はわずか34名あまりの供回りを連れて堺を遊覧中でした。もし事前に明智光秀の謀叛を知り結託していたのであれば、無防備な少人数で敵対勢力や落ち武者狩りの跋扈する近畿に留まるなどという自殺行為に及ぶはずがありません。信長の急死を知った家康は絶望し、知恩院で自害しようとしたところを本多忠勝らに制止されたと伝えられています。

そこから決行されたのが、日本史上に名高い「神君伊賀越え」です。豪商・茶屋四郎次郎の財力と服部半蔵らが差配した伊賀・甲賀忍者の警護を受け、命からがら三河へ生還した家康の行動は、黒幕どころか完全な被災者そのものでした。三河に逃げ帰った家康は、信長への弔い合戦を掲げて直ちに出兵準備を整えています(山崎の戦いで秀吉が先着したため間に合わず)。二人の間には、疑心暗鬼を超えた「盟友の急死に対する激しい動揺と政治的空白への危機感」がリアルタイムに交錯していました。

林 結菜

林 結菜

ライフスタイル編集者

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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