「殺しの柳川」柳川次郎の伝説と真実!解散の謎から晩年の日韓親善まで

「殺しの柳川」柳川次郎の伝説と真実!解散の謎から晩年の日韓親善までの主要なニュースをコンパクトにまとめました。全体像を一目で把握できます。

出所後の柳川次郎が選んだ道は、裏社会への復帰ではなく、表舞台での国際親善活動でした。柳川は政治団体「亜細亜民族同盟」を設立して会長に就任し、アジア諸国の連帯と日韓の友好関係構築に奔走します。

特に当時の日韓関係は冷戦構造の中で極めて緊密かつ複雑な局面にあり、柳川は持ち前の度胸と幅広い人脈を生かして、政財界の要人とパイプを築きました。韓国の朴正煕政権中枢や日本の有力政治家との間に立ち、民間外交のフィクサーとして重要な役割を果たしたとされています。

また、柳川はスポーツ振興、とりわけボクシング界の発展にも情熱を注ぎました。東洋太平洋ボクシング連盟(OPBFの前身組織など)の活動支援や国際試合のプロモートに関わり、多くの若手選手にチャンスを提供しました。

家庭人としての柳川は、子煩悩で知られ、自らの家族や息子に対しては裏社会との関わりを厳格に禁じました。「自分の代で泥水を飲む生活は終わりにする」という強い信念のもと、子どもたちには真っ当な教育を受けさせ、一般社会で自立するよう育て上げました。

1991年(平成3年)12月14日、柳川次郎は大阪市内の病院で息を引き取りました。死因は心不全(享年68)。かつて裏社会を震え上がらせた武闘派の首領の葬儀には、政財界、スポーツ界、文化人など多方面から数千人が参列し、その波乱に満ちた生涯に別れを告げました。

吉田 誠

吉田 誠

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest