教科書を変えた岩宿遺跡の真実|相沢忠洋の執念と関東ローム層の謎
教科書を変えた岩宿遺跡の真実|相沢忠洋の執念と関東ローム層の謎の概要と注目ポイントを一挙に解説しました。
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岩宿遺跡の物語は、1946(昭和21)年、納豆の行商をしながら考古学への情熱を燃やしていた青年・相沢忠洋の鋭い観察眼から始まりました。当時の定説では、富士山や浅間山などの噴火による火山灰が堆積した関東ローム層(赤土層)は、生物が生存できない不毛の地層とされ、土器が出土する縄文時代以前の「旧石器時代」の遺物は日本には存在しないと信じ込まれていました。
相沢は行商の合間、笠懸野(現在の群馬県みどり市笠懸町)の切り通しの崖を毎日観察し続けました。自著の手記『「岩宿」の発見』のなかで、彼は切り通しの赤土の断面に露出した黒く光る破片を見つけた瞬間の胸の高鳴りを詳細に記録しています。「土の塊の中から現れた黒曜石の小片は、明らかに自然の風化ではなく、人の手が加わった打撃痕を持っていた」という確信でした。
そして1949年夏、相沢はローム層の深部から完全な形状を保った槍先形打製石器(ナイフ形石器)を自力で掘り出します。相沢の報告を受けた明治大学の杉原荘介助教授(当時)や芹沢長介らは現地調査に乗り出し、同年10月に本格的な発掘調査を実施。赤土層から複数の打製石器が学術的に確認され、「日本に旧石器時代は存在しない」という頑迷な常識は音を立てて崩壊しました。