ヴィルヘルム2世はなぜ失脚したのか?ビスマルク解任から亡命の真相
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1888年、祖父ヴィルヘルム1世と父フリードリヒ3世が相次いで世を去り、弱冠29歳でプロイセン国王およびドイツ帝国皇帝に即位したヴィルヘルム2世。彼が最初に着手したのは、ドイツ統一の立役者であり、20年近く帝国を牛耳ってきた「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクの解任でした。
対立の表面的な理由は、国内の社会主義運動への対応(社会主義者鎮圧法の延長をめぐる意見の不一致)や閣僚との接触権限をめぐる主導権争いでしたが、本質は「若い皇帝自らが全権を握り、真の支配者として君臨したい」という強烈な親政意欲にありました。1890年、ビスマルクを辞職に追い込んだ際、英風刺画誌『パンチ』には「水先案内人の下船」と題された有名な風刺画が掲載され、老練な操舵手を失ったドイツの行く末を世界が固唾をのんで見守ることになります。
ビスマルクを排除したヴィルヘルム2世は、現状維持を基本としていた従来の外交方針を180度転換し、「世界政策(ヴェルト・ポリティーク)」を掲げて対外進出を本格化させました。アフリカやアジアへの植民地獲得競争に強引に割り込み、中東ではバグダード鉄道建設を推進(3B政策)。さらにイギリスに対抗して大規模な建艦競争を仕掛けたことで、従来の国際秩序を根底から揺るがしました。
この独断的な拡張政策は、ロシアとの友好関係を断ち切る結果を招き(独露再保障条約の更新拒否)、フランスとロシアの急接近、さらには英仏協商の締結を誘発。ヨーロッパは「三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)」対「三国協商(イギリス・フランス・ロシア)」という危険な対立構造へと急速に二極化していきました。