群馬県の県庁所在地はなぜ前橋?高崎ではなく選ばれた真相と歴史
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「なぜ高崎ではなく前橋なのか?」という疑問を解消するには、明治初期の激動期に起きた廃藩置県と群馬県の歴史を辿る必要があります。群馬県公文書館に所蔵された記録や当時の布告を紐解くと、群馬県の県庁所在地は当初から前橋に固定されていたわけではなく、高崎と前橋の間で目まぐるしい変遷を遂げていた事実が浮き彫りになります。
1871年(明治4年)の廃藩置県によって成立した第1次群馬県では、当初は旧高崎城内に県庁が置かれました。しかし、直後に明治新政府が推進する軍備近代化の波が押し寄せます。高崎城が陸軍の歩兵営(東京鎮台分営)用地として収用されることになり、行政機関としての県庁は退去を余儀なくされました。仮の移転先として選ばれたのが、利根川沿いに位置する旧前橋城跡でした。
その後、周辺地域の統廃合によって現在の群馬県・埼玉県の一部を包含する「熊谷県」が発足し、県庁は熊谷に置かれます。そして1876年(明治9年)、現在の境界線に近い第2次群馬県が再設置された際、再び「高崎か前橋か」という激しい誘致競争の火蓋が切って落とされたのです。
この県庁所在地移転の経緯において決定的な役割を果たしたのが、初代群馬県令(現在の県知事に相当)に着任した楫取素彦(かとりもとひこ)でした。幕末の志士・吉田松陰の義弟としても知られる楫取は、国策である「富国強兵・殖産興業」を遂行するにあたり、前橋が誇る一大産業に着目します。それが「生糸(シルク)」の存在でした。
当時、生糸は日本の全輸出額の過半を占める外貨獲得の生命線であり、前橋は近隣の富岡製糸場とも連動する日本屈指の蚕糸集散地でした。楫取は産業振興の拠点として前橋を強力に推し進めます。さらに、前橋の有力生糸商人や町民たちは、県庁誘致のために官民一体となって立ち上がりました。当時の公文書記録によると、町民たちは私財を投げ打ち、県庁舎建設費や付帯インフラ整備費として合計2万6,000円余り(現在の貨幣価値で約30億円から40億円相当)という莫大な寄付金を拠出。新庁舎の敷地も無償提供することを申し出たのです。
対する高崎側も陳情運動を繰り広げたものの、財政難に苦しむ明治政府にとって、民間資金で庁舎建設の全額を賄う前橋の提案は決定的な魅力でした。1881年(明治14年)、太政官布告によって「群馬県庁ヲ前橋ニ設置ス」と正式公布され、群馬県の県庁所在地が前橋の理由となる強固な歴史的基盤がここに完成したのです。