あらざらむこの世のほかの思ひ出に真相解明!相手の正体と和泉式部の愛

話題沸騰中の あらざらむこの世のほかの思ひ出に真相解明!相手の正体と和泉式部の愛について、多角的な視点を整理して公開しています。

読者の最大の関心事は、「これほどまでに命を賭けて逢いたがった相手は誰なのか」という点に尽きます。千年にわたり国文学者たちの間でも議論が戦わされてきたこの謎について、現存する諸史料の整合性から検証します。

候補1:冷泉天皇の皇子・為尊親王(弾正宮)

和泉式部が最初に激しい身分違いの恋に落ちたのが、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(ためたかしんのう)です。夫・橘道貞との婚姻関係が破綻する引き金となったスキャンダラスな恋でしたが、親王は長保4年(1002年)、26歳の若さで流行病により急逝します。もしこの歌が為尊親王に宛てられたものだとすれば、親王が没する直前の早い時期の作ということになりますが、詞書や集録の時期と照らし合わせると年代的なズレが指摘されています。

候補2:為尊親王の実弟・敦道親王(帥宮)

兄の死後、悲嘆に暮れる和泉式部に文を送り、やがて本妻を追い出してまで彼女を自邸に迎え入れたのが敦道親王(あつみちしんのう)です。『和泉式部日記』に描かれた情熱的な恋の主であり、彼女が生涯で最も深く愛した男性と目されています。しかし、敦道親王もまた寛弘4年(1007年)、わずか27歳で病没しました。彼女自身が「起き上がることもできないほどの病」に伏した時期と敦道親王の存命期が合致するかについては諸説あり、親王の生前の病床で詠まれたとする見解は根強く支持されています。

候補3:再婚相手の武者・藤原保昌

敦道親王の死後、和泉式部は一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕し、やがて武勇で知られた受領貴族・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚して丹後国(現在の京都府北部)へ下ります。保昌との関係は必ずしも円満ではなく、性格の不一致や冷淡さに悩まされていたことが私家集『和泉式部集』から窺えます。病床に伏した際、遠ざかりつつあった夫の情愛を呼び戻すために詠んだという説も古典注釈書の一部に散見されます。

【真相の検証】あえて「人」と記された詞書の真意

『後拾遺和歌集』の編纂者は、なぜ相手の素性を明記せず「人のもとにつかはしける」とぼかしたのでしょうか。当時の勅撰集では、相手が高貴な皇族である場合、実名を避けて「宮」や官職名で記すのが通例でした。にもかかわらず単に「人」と記された背景には、「特定の相手との個人的な愛憎劇を超え、一人の人間が死の瞬間に見せる魂の執着として普遍化させた」撰者の意図、あるいは複数の男たちとの濃密な関係を経た和泉式部自身が、もはや相手の属性ではなく「魂の半身」としての対象へ向けた手紙であったことを示唆しています。

山崎 陸

山崎 陸

ガジェット&アプライアンスライター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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