立憲政友会とは?伊藤博文から解党までの軌跡と二大政党の真実を徹底解剖
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立憲政友会を名実ともに日本最強の政治マシンへと育て上げたのが、第3代総裁の原敬です。盛岡藩士の家柄ながら平民籍にとどまり、「平民宰相」として国民的な熱狂のなかで1918年(大正7年)に成立した原敬内閣は、陸海軍大臣と外務大臣を除く閣僚をすべて政友会員で固めた日本初の「本格的政党内閣」でした。
原の手腕の真骨頂は、徹底した組織構築と「利益誘導政治」の確立にありました。原は鉄道建設、道路整備、港湾改修、高等教育機関の増設といった公共事業予算を、政友会を支持する地方選挙区へ重点的に配分する政策を断行します。いわゆる「我田引鉄(がでんいんてつ)」と呼ばれる露骨なインフラ整備は、地方の名望家層を強固な支持基盤として結束させ、中央の予算配分権力を政友会の党勢拡大に直結させました。
しかし、その強固な権力基盤の裏側で、光と影のコントラストは色濃くなっていきます。膨大な一次史料として知られる『原敬日記』には、政治のリアリズムを知り尽くした原の冷徹な記述が残されています。原は国民の間で高まっていた普通選挙(普選)の要求に対して、「時期尚早であり、衆愚政治に陥る」として頑なに拒否し続けました。普通選挙を求める大衆運動を警察権力で封殺し、政友会の地盤である納税資格を持つ富裕層・地主層の利益を守る姿勢は、都市部の中間層や労働者階層からの激しい怒りを買いました。
結果として、政友会の金権体質や汚職疑惑に対する批判が沸騰する中、1921年(大正10年)11月4日、原敬は東京駅丸の内南口の改札前において、一人の鉄道員青年の凶刃に倒れます。カリスマ指導者を暗殺によって失ったことは、党にとっても、日本の政党政治にとっても壊滅的な打撃となりました。