藤子不二雄AとFの違いとは?コンビ解散の真相と名作の軌跡を解剖
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1987年12月、日本の出版界に激震が走りました。「藤子不二雄」のコンビ解消発表です。当時の一部メディアや世間では「金銭トラブルではないか」「激しい確執が生じたのではないか」といったセンセーショナルな憶測が飛び交いました。しかし、一次資料や関係者の証言を辿ると、浮かび上がるのは不仲とは真逆の「お互いを思いやる極めて合理的で深い友情」でした。
解散の引き金となった決定的な事実は、1986年に藤本弘氏が患った胃がんの手術でした。幸い手術は成功したものの、自らの健康状態と寿命を意識せざるを得なくなった藤本氏は、将来自分に万が一のことがあった場合の権利関係を真剣に考えるようになります。当時、二人が描いた作品の原稿料や著作権印税は、どちらが執筆したかに関わらず、設立した会社を通じて完全に折半(50対50)で分配されていました。
生前、安孫子氏がテレビ特番のインタビューや手記で振り返ったところによると、相談を受けた弁護士や税理士から「将来どちらかが亡くなり、相続が発生した際、遺族間で著作権や収入の配分を巡るトラブルが起こるリスクがある」と助言を受けたといいます。子どもたちや遺族に禍根を残さないため、二人が元気なうちに権利を明確に切り分けておく必要があったのです。
もう一つの大きな要因は、クリエイターとしての作家性の乖離でした。『ドラえもん』の空前の大ヒットにより、藤本氏は児童漫画の第一人者としての多忙を極めていました。一方で安孫子氏は、青年漫画やブラックな味わいを持つ独自路線へと大きく舵を切っていました。「藤子不二雄」という一つの看板を背負い続けることは、互いの純粋な創作意欲を縛り合うことにもなりかねなかったのです。
発表会見の席上、安孫子氏は「僕たちには喧嘩するエネルギーなんて最初からありませんよ」と笑顔で語り、不仲説を一蹴しました。少年時代からの固い絆があったからこそ、美しい幕引きを選択できたのです。