土方歳三の墓はなぜ複数あるのか?本当の埋葬地と衝撃の真相を徹底解説

土方歳三の墓はなぜ複数あるのか?本当の埋葬地と衝撃の真相を徹底解説の真相について、最新情報を基に徹底解説します。

土方歳三の墓所を探すと、東京の日野や板橋、会津若松、そして函館と、実に広範囲にわたってその名が刻まれた石碑が見つかります。この現象が生じた最大の理由は、仏教・日本文化特有の「埋葬墓(遺体を葬った地)」と「供養墓(魂を慰めるために建てられた碑)」の分離にあります。

明治2年(1869年)5月11日、箱館一本木関門付近で銃弾に倒れた土方歳三は、敗軍の将として敵地である蝦夷地(北海道)で落命しました。当時は明治政府軍の監視が厳重を極め、遺体を故郷へ連れ帰ることは政治的にも物理的にも不可能な状況でした。そのため、現地で急ぎ埋葬が行われた一方、彼を慕う人々はそれぞれの縁の地で独自に供養塔を建立したという歴史的経緯があります。

具体的には、土方家の血族が住まう武蔵国多摩郡(現・東京都日野市)では生家の菩提寺として、会津戦争を共に戦った東北の地では藩主・松平容保との絆を証すものとして、そして生き残った新選組隊士・永倉新八らは処刑された局長・近藤勇とともにその魂を弔うため板橋の地に碑を建てました。このように、全国の墓所は「激動の戊辰戦争の進軍ルート」と「敗者となった戦友たちを命がけで顕彰しようとした人々の執念」をそのまま物語るモニュメントとなっています。

山口 彩花

山口 彩花

写真家・フォトエディター

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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