沖田畷の戦いとは?圧倒的兵力差の龍造寺軍が壊滅した勝敗の理由
沖田畷の戦いとは?圧倒的兵力差の龍造寺軍が壊滅した勝敗の理由とはどんな影響があるのか? 専門的な分析を整理してお届けします。
1584年3月24日早朝、決戦の火蓋が切られました。島津家久が採用したのが、島津軍のお家芸ともいえる高等戦術「釣り野伏せ(つりのぶせ)」です。
合戦の推移と勝敗の流れは以下の通りです。
① 偽装退却による誘引:前線に配置された島津・有馬の先鋒部隊が、龍造寺の大軍と交戦を開始。激しく打ち合った後、あえて敗色を装って一斉に退却を始めます。
② 泥濘への深入り:圧倒的優勢に気を良くした龍造寺軍は手柄を焦り、退却する敵を追って一気に進軍。しかし、そこは道幅が狭く足元がぬかるむ泥湿地でした。大軍ゆえに後方からの押し出しで軍列が密集し、身動きが取れなくなります。
③ 鉄砲隊の集中射撃と伏兵の強襲:有馬軍は有明海に浮かべた船上から大砲や鉄砲を浴びせ、陸地では草むらや物陰に潜んでいた島津の伏兵が一斉に蜂起。混乱し身動きの取れない龍造寺軍の側面・背後を突いて包囲し、大混乱に陥れました。