ジャンヌ・ダルクとは?救国の少女が火刑に処された真相と奇跡の生涯
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戴冠式を成功させた後、ジャンヌの運命は急速に暗転します。パリ奪還を目指したジャンヌに対し、戦費の枯渇とブルゴーニュ派との外交交渉による和平を望んだシャルル7世の側近たちは消極的な姿勢をとるようになります。宮廷内では、ジャンヌの絶大な発言力と人気を妬む顧問官ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユらの策動が強まっていました。
1430年5月23日、コンピエーニュの戦いにおいて、ジャンヌは殿(しんがり)を務めて味方を逃がす過程でブルゴーニュ軍に捕らえられます。当時、重要貴族や将軍であれば高額な身代金で身柄を請け戻すのが通例でしたが、シャルル7世は一切の交渉を行いませんでした。その結果、ジャンヌは1万リーブルという巨額の金銭でイングランド軍へと引き渡されることになります。
イングランド側にとって、ジャンヌを生かしておくことは自軍の正統性を根底から揺るがす重大な脅威でした。「神の声に従ってシャルルを戴冠させた」というジャンヌの主張を認めれば、イングランド王のフランス王位継承権は神に否定されたことになってしまうためです。イングランドは、ジャンヌを「神の使者」ではなく「悪魔に唆された魔女・異端者」として断罪し、シャルル7世を「魔女に担がれた偽りの王」へと貶める必要がありました。
こうして1431年、親イングランド派の司教ピエール・コーションが裁判長を務めるルーアン異端審問裁判が開廷しました。この法廷は宗教裁判の体裁を取りながらも、実際には最初から死刑という結論が決められた完全な政治裁判だったのです。