原爆候補地の真実|なぜ京都や小倉は外れ広島と長崎だったのか
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日本国内では長年、「美術史家ラングドン・ウォーナー博士が古都の文化財を守るよう米政府に進言したため、京都は空爆を免れた」という美談が語り継がれてきました。しかし、現代の歴史研究および米国側の機密文書調査によって、この説は完全に否定されています。ウォーナー博士本人も生前、友人への書簡で自身が関与した事実はないと明確に否定しています。
京都を原爆目標リストから外させた決定的な人物は、当時のヘンリー・スティムソン陸軍長官でした。
グローブス准将は、京都が「100万を超える人口を持ち、盆地地形によって破壊力が最大限に発揮できる格好の実験場」であるとして、最後まで第一候補として固執していました。目標選定委員会の初期書類において、京都は広島を抑えてリストのトップに君臨していたのです。
これに対し、スティムソン長官は1945年5月30日および7月、グローブスに対して京都の除外を直接命令しました。スティムソンが京都除外に固執した背景には、以下の地政学的・戦略的な思惑がありました。
- 戦後統治における対米感情の悪化防止:スティムソンは日記の中で、「日本の歴史的・文化的中心地を灰燼に帰せば、戦後、日本国民の対米感情は修復不可能なほど悪化し、長期的な統治が破綻する」と記しています。
- 共産主義(ソ連)への接近阻止:日本人に決定的な遺恨を残せば、戦後の日本が反米化し、ソビエト連邦側に傾斜することを強く警戒していました。
- 個人的な京都への愛着:スティムソンは過去に数度京都を訪れており(新婚旅行で訪れたという記録も存在します)、その美しさに個人的な感銘を受けていたことも影響したと証言されています。
グローブスはスティムソンの命令を不服とし、ポツダム会談中にも再考を迫りましたが、スティムソンはハリー・S・トルーマン大統領に直訴。大統領の最終判断によって、京都は完全に候補地から外され、その代替として急遽組み込まれたのが長崎でした。