山口組の頂点に立った田岡文子の実像|山一抗争の決断と映画モデルの真実
山口組の頂点に立った田岡文子の実像|山一抗争の決断と映画モデルの真実の概要と注目ポイントを徹底的にカバーしました。
文子の生涯における最大のハイライトであり、同時に昭和最大の悲劇を生む発端となったのが、1981年7月の田岡一雄三代目組長の急逝でした。さらに翌1982年2月には、後継者と目されていた若頭の山本健一(山健組組長)までもが病に倒れ、絶対的指導者を一度に失った山口組は前代未聞の指導部空白に直面します。
この未曾有の危機に際し、直参組長たちの推戴を受ける形で組織の前面に立ったのが田岡文子でした。形式上は最高幹部による合議制が敷かれつつも、文子が「組長代行」のような形で最高意思決定の場に座り、1万人を超える構成員を統率する異例の事態が生じました。
そして1984年、文子は運命の決断を下します。三代目の遺志を汲み、武闘派として鳴らした若頭・竹中正久を四代目組長に指名したのです。しかし、この決定に強く反発したのが、古参幹部で組長代行補佐を務めていた山本広らでした。「なぜ若輩の竹中なのか」「姐さんの専断ではないか」という不満は修復不能な亀裂へと発展し、山本らは約半数の直系組長を引き連れて離脱、「一和会」を結成します。
文子の強烈なリーダーシップによる一本化の試みは、皮肉にも昭和裏面史最大の流血戦線である「山一抗争」へと直結することになりました。1985年1月には、文子が後継に据えた竹中四代目自身が一和会ヒットマンにより暗殺されるという衝撃の事態へと発展します。