寺田屋事件の真相と2つの違い|龍馬脱出の謎と弾痕の真実を徹底解説

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慶応2年の事件において、数十人の武装した捕吏に包囲されながら、なぜ坂本龍馬は命を落とさずに脱出できたのでしょうか。当時の一次史料である龍馬自身の書簡(姉・乙女宛て)や、同行していた三吉慎蔵の記録『梅庵日記』を照らし合わせると、3つの決定的な生存要因が浮かび上がります。

1. お龍の類まれな決断力と「風呂場からの急報」

最大の功労者は、後に龍馬の妻となるお龍(楢崎龍)の機転です。事件当夜、1階の風呂に入っていたお龍は、建物の周囲を奉行所の捕吏が取り囲み、槍の穂先が隙間から差し込まれる不穏な気配を察知しました。 お龍は湯船から飛び出すと、着物を整える間も惜しんで袷(あわせ)を羽織っただけの姿で裏階段を駆け上がり、2階で密談中だった龍馬と三吉慎蔵に「曲者です!」と叫んで急報しました。この数秒の猶予がなければ、2人は寝込みや無防備な状態を襲われ、その場で討ち取られていたはずです。

2. S&W製ピストルと三吉慎蔵の宝蔵院流槍術

急報を受けた龍馬は、高杉晋作から贈られたとされるスミス&ウェッソン(S&W)社製のモデル2アーミー(33口径・6連発)拳銃を構え、三吉慎蔵は手元にあった槍を構えて迎え撃ちました。 狭い階段を駆け上がってくる捕吏に対し、龍馬はピストルを連射して敵を牽制。暗闇と硝煙の中、敵の刀身を受け止めた際に両手の親指を深く斬り裂かれる重傷を負いながらも、全弾を撃ち尽くして侵入を阻みました。同時に、宝蔵院流槍術の達人であった三吉慎蔵が槍を縦横に振るって応戦し、敵の突入を完全に食い止めたのです。 【一次資料に見る現場の迫真】 龍馬が慶応2年12月4日付で姉・乙女に宛てた手紙には、当時の様子が克明に記されています。 「(敵が)槍を突き出し候ゆえ、ピストールを打ち込み候ところ、一人即死、一人は手負いになり候」 暗闇の中で弾丸を装填できなくなる限界まで戦い抜いた生々しい筆跡が、死線の凄まじさを今に伝えています。

3. 屋根伝いの脱出と材木小屋への潜伏、薩摩藩の救出

弾薬が尽き、刀を握る握力も失った龍馬は、三吉慎蔵の誘導で裏の屋根伝いに寺田屋を脱出しました。2人は伏見の町を流れる濠川沿いを進み、龍馬は傷の激痛と出血のために動けなくなり、材木商の納屋(材木小屋)に身を潜めました。 三吉慎蔵は単身で包囲網を突破し、近くの伏見薩摩藩邸へと急行して救援を要請。急報を受けた薩摩藩は直ちに救助船を出し、瀕死の龍馬を無事に藩邸へと収容しました。西郷隆盛らの手配により藩邸で医師の手当てを受けた龍馬は、その後、西郷の勧めで傷の治療とお龍との保養を兼ねて薩摩(鹿児島・霧島)へ赴くことになります。これが日本最初の新婚旅行として知られる旅の始まりです。

斉藤 蓮

斉藤 蓮

デジタルマーケティングコンサルタント

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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