関東と関西の関とはどこか?歴史に消えた境界線の真相と由来を追う
関東と関西の関とはどこか?歴史に消えた境界線の真相と由来を追うについて詳しく解説いたします。専門家の見解をお届けします。
中世の武家社会に入ると、鎌倉幕府の成立に伴って「関東」の意味合いは政治的なニュアンスを帯びるようになります。鎌倉街道の整備とともに東国武士の本拠地を指す言葉へと変化し、室町時代には関東管領が統治する地域(関八州)の概念が育まれました。
近世の江戸時代に入ると、徳川幕府は天下の覇権を盤石にするため、五街道の要所に関所を再配置します。その筆頭が、東海道の要衝に置かれた「箱根関所」(神奈川県足柄下郡箱根町)と、甲州街道の「小仏関所」(東京都八王子市)です。
幕府は江戸防衛のために「入鉄砲に出女(江戸に入る武器と、人質として江戸に住まわせている諸大名の妻が脱走すること)」を厳重に取り締まりました。これにより、人々の意識の中で「箱根の関所より東側=江戸のお膝元=関東」という図式が決定づけられます。当時、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8か国は「坂東八道」あるいは「関八州(かんはっしゅう)」と呼ばれ、これが現在の「関東地方(1都6県)」の直接的な原型となりました。
一方、江戸時代において西の経済中心地は「関西」ではなく主に「上方(かみがた)」と呼ばれていました。明治新政府による廃藩置県と関所撤廃を経て、近代国家として全国の行政区分が再編される中で、中世以来の「関西」という言葉が再びクローズアップされ、東京(関東)に対置される経済・文化圏の呼称として定着していったのです。