明智光秀の死因は竹槍か自害か?小栗栖の悲劇と天海生存説の真相を解明
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明智光秀の死因を紐解く上で、最大の論点となるのが「農民に討ち取られたのか、それとも武士としての誇りを保ち自害したのか」という点です。同時代から江戸初期にかけて成立した複数の記録を突き合わせると、その実態は「落ち武者狩りによる致命傷と、直後の介錯・自害」が重なったものと考えられます。
天正10年(1582年)6月13日深夜、山崎の合戦に敗れた光秀は、わずかな側近を連れて勝竜寺城を脱出し、自らの本拠地である近江・坂本城を目指していました。京都盆地の東南端に位置する山城国伏見の小栗栖(現在の京都市伏見区醍醐)を通過する際、暗闇の竹藪に潜んでいた土民・小栗栖長兵衛らの落ち武者狩りから奇襲を受けます。
秀吉の右筆・大村由己が記した戦記『惟任退治記』や公家の日記『言経卿記』によると、光秀は竹藪から突き出された槍や竹槍によって脇腹などに重傷を負いました。落馬した光秀はもはや自力での逃走が不可能であると悟り、近臣の溝尾庄兵衛(三沢秀次)に介錯を命じ、自ら腹を切って果てたと伝えられています。
光秀の享年については、通説の55歳説(享禄元年生まれ)と、近年の研究で有力視される67歳説(永正13年生まれ)が存在します。暗夜の竹藪の中で、戦国随一の教養人でもあった光秀が残した最後の言葉については明確な記録はないものの、家臣に対して「我が首を敵に渡すな、坂本城へ持ち帰れ」と厳命した様子が各軍記物に生々しく描かれています。