小西行長はなぜ切腹を拒んだのか?加藤清正との対立と子孫の真実
小西行長はなぜ切腹を拒んだのか?加藤清正との対立と子孫の真実の真相や最新動向に迫る! わかりやすい言葉でまとめました。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いが徳川家康率いる東軍の勝利に終わると、伊吹山中に逃亡した小西行長は、草むらに潜んでいたところを東軍の武将・竹中重門の兵によって捕らえられました。武士にとって敵の手にかかる前に自害することは武功の証であり、生き恥を晒さないための絶対的規範でした。しかし、行長は刀を抜くことなく、自ら正体を明かして縛につきました。
当時のイエズス会宣教師が本国へ送った報告書やルイス・フロイスの記録が物語る通り、行長は洗礼名「アゴスティニョ」を持つ敬虔なキリスト教信徒でした。カトリックの教義において、神から与えられた生命を自ら絶つ「自殺」は、死後地獄に堕ちる許されざる大罪です。「命惜しさに切腹を免れたのではない。神の教えに背く自害という大罪を犯すことを拒絶したのだ」という行長の態度は、武士階級の常識から見れば卑小な逃避と嘲笑の対象になりましたが、信仰者としては至高の殉教への道でした。
大坂・堺の市中を引き回された行長は、同年10月1日、石田三成、安国寺恵瓊とともに京都・六条河原の露と消えました。刑場において行長は、差し出された仏教の数珠や浄土宗の僧侶による引導を毅然と固辞。胸に忍ばせていたイエス・キリストと聖母マリアの聖画を掲げ、祈りを捧げながら従容として斬首を受けました。首は三条河原に晒されましたが、武士の形式美に殉じるのではなく、自らの良心と信条に殉じたこの最期は、日本史における信仰の自立を示す象徴的な事件です。