清水次郎長の実像と真相|博徒から明治の実業家へ激動の生涯を追う
清水次郎長の実像と真相|博徒から明治の実業家へ激動の生涯を追うにまつわる最新トピックを詳しく紐解きます。
清水次郎長(本名:山本長五郎、1820年〜1893年)のパブリックイメージを決定づけたのは、明治の講談師・三代目神田伯山や、昭和初期に一世を風靡した二代目広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」でした。さらに戦後から昭和40年代にかけて東映などで多数製作された歴代の映画・ドラマ(片岡千恵蔵、中村錦之助、鶴田浩二、三船敏郎などが主演)により、「喧嘩っ早いが人情に厚い親分」という虚像が日本中に浸透しました。
しかし、実際の清水次郎長の経歴と生涯を紐解くと、単なる喧嘩上等の渡世人ではありません。駿河国有度郡清水町(現・静岡市清水区)の船持ち商人・美濃屋雲右衛門の次男として生まれ、叔父の米穀商「甲田屋」次郎八の養子となった長五郎は、幼少期から「次郎八のところの長五郎」が縮まって「次郎長」と呼ばれるようになります。
青年期に博徒の世界へ足を踏み入れ、東海道筋で勢力を拡大したのは事実ですが、その本質は武力による制圧ではなく、綿密な情報収集と経済力、そして卓越した交渉力にありました。血で血を洗う出入り(抗争)は最小限に抑え、地域の治安維持や物流網の安全を握ることで、幕末の動乱期において東海道の治安を実質的に統括する存在へとのし上がっていったのです。