蘇我蝦夷と入鹿はなぜ滅ぼされたか?乙巳の変の真相と滅亡の決定打
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ネット上や一般的な通説において、「蘇我入鹿は天皇の座を奪おうとした極悪人」「日本を私物化した独裁者」と語られるケースが散見されます。しかし、歴史学の観点からは、これらは『日本書紀』編纂者(天武天皇・持統天皇系および藤原不比等ら)による典型的な「勝者のプロパガンダ」であると指摘されています。
第一に注目すべきは、名前そのものの作為性です。歴史作家の加来耕三氏ら多くの研究者が言及している通り、「蝦夷(エミシ=東方の野蛮人)」や「入鹿(イルカ=海の獣、あるいはシカ)」という呼び名は、政変後に朝廷側が意図して付けた「蔑称」であった可能性が極めて高いとされています。生前の彼らが自らを獣の名で呼んでいたとは考えにくく、後世の記録において徹底的にその名誉を失墜させる意図が働いていました。
第二に、入鹿の政治手腕に対する客観的評価です。入鹿は唐から帰国した留学僧・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の私塾で先進的な儒教や律令を学んだ第一級のインテリでした。中大兄皇子や中臣鎌足も同じ塾に通って学んでおり、入鹿は彼らにとって「優秀な同門のライバル」でもありました。
当時、唐が強大な軍事力で高句麗へ遠征するなど東アジア情勢は緊迫を極めていました。入鹿が目指したのは、豪族の私利私欲を排した強固な集権国家であり、その改革スピードがあまりに急進的だったがゆえに、旧勢力の反発を招いたというのが近年の妥当な分析です。入鹿が断行した改革の多くは、皮肉にも彼を討った中大兄皇子らの大化改新政権によってそのまま引き継がれました。