ボスニア・ヘルツェゴビナの現在地|治安と歴史の真実を徹底解剖
ボスニア・ヘルツェゴビナの現在地|治安と歴史の真実を徹底解剖を徹底追究! 知っておきたい 重要ポイントを凝縮して配信します。
この国の土壌には、近代世界史の激震と悲劇が深く刻まれています。1914年6月28日、首都サラエボを流れるミリャツカ川に架かるラテン橋の北端で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されました。これが第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の真相です。暗殺を実行したのは、セルビア民族主義組織に属する当時19歳の青年ガヴリロ・プリンツィプでした。大国バルカン進出の思惑とバルカン諸民族のナショナリズムが衝突したこの事件は、人類史上未曾有の大戦へと世界を呑み込んでいきました。
そして時代が下った20世紀末、今度は冷戦終結に伴う旧ユーゴスラビア解体の渦中で、凄惨を極めるボスニア紛争(1992〜1995年)が勃発します。この紛争の本質を理解する鍵は、ボスニア・ヘルツェゴビナ宗教対立の理由と複雑な民族構成にあります。同国には主に3つの民族が暮らしています。
- ボシュニャク系:オスマン帝国支配時代にイスラム教を受容したスラヴ系ムスリム
- セルビア系:東方正教会の信仰を守り、大セルビア主義に傾斜した勢力
- クロアチア系:カトリックを信仰し、隣国クロアチアとの結びつきが強い勢力
社会主義ユーゴスラビアのカリスマ的指導者チトー大統領の死後、連邦を繋ぎ止めていた求心力が消失。ボスニアが住民投票を経て独立を宣言すると、独立に反対するセルビア系勢力が武装蜂起し、三つ巴の内戦へと突入しました。首都サラエボはセルビア系部隊によって1,400日以上にもわたり完全包囲され、街を行き交う市民が無差別の狙撃兵(スナイパー)の標的となる「スナイパー通り」の惨劇や、スレブレニツァにおける集団殺害など、第二次世界大戦後の欧州で最悪の人道危機が発生したのです。
1995年のデイトン合意によって戦闘は終結しましたが、国家構造は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボシュニャク系・クロアチア系)」と「スルプスカ共和国(セルビア系)」という2つの自治主体が1つの屋根の下に同居する極めて歪で複雑な統治システムを採用することになりました。現在も街中に残る銃弾の痕跡「サラエボの薔薇」は、激動の歴史の証言者として静かに呼吸を続けています。