日本のウイスキーの父・竹鶴政孝の生涯|鳥井信治郎との決別と真実
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1920年に帰国した政孝を待ち受けていたのは、第一次世界大戦後の深刻な戦後恐慌でした。摂津酒造は本格ウイスキー事業の断念を余儀なくされ、政孝はやむなく同社を退職。失意の底にあった彼に救いの手を差し伸べたのが、後にサントリーを創業する寿屋の社長、鳥井信治郎でした。
鳥井は本物のウイスキー造りを目指し、スコットランドから技師を招聘しようと考えていましたが、現地の専門家から「日本にはすでに本場の技術を完璧に習得した竹鶴という青年がいる」と知らされます。鳥井は政孝を1923年(大正12年)、当時としては破格の年俸4,000円(現在の価値で数千万円相当、10年契約)という超高待遇で招聘。京都と大阪の境に位置する名水の地・山崎蒸溜所の初代工場長に任命しました。
二人のタッグによって1929年、日本初の本格国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」が誕生します。しかし、この歴史的快挙がやがて二人の路線の違いを浮き彫りにしていきました。
発売された「白札」は、当時の日本人にとって「煙くさい(ピート香が強すぎる)」と不評を買い、売れ行きは芳しくありませんでした。鳥井は「日本人に受け入れられるウイスキー」へ改良すべきだと考え、政孝は「本物の味を変えてはならない、時代が追いつくのを待つべきだ」と主張しました。この哲学の違いこそが、10年の契約満了に伴う政孝の独立へとつながります。二人の決別は感情的な対立ではなく、それぞれの信念を貫くための必然の選択でした。