原田左之助の死因と切腹の傷に迫る!馬賊生存説と新選組十番隊長の真相

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原田左之助の最期に関する公式な通説は、慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争における戦死です。彰義隊から分派した神木隊に加わった原田は、新政府軍の圧倒的な火力に対抗して黒門口で奮戦。近代兵器による集中砲火を浴びて重傷を負い、本所猿江町にあった幕府の軍医・松本良順の仮野戦病院、あるいは下谷の本成寺へ運び込まれ、傷の悪化により2日後に落命したとされています。

ところが明治中期から大正期にかけて、驚くべき「原田左之助生存説」が世間を賑わせることになります。その発端となったのが、日清戦争や日露戦争に従軍した軍人たちの証言です。満州(中国東北部)の荒野で暗躍していた馬賊の集団の中に、日本刀と長槍を自在に操る白髪の日本人頭領がおり、自らを「元新選組十番隊組長・原田左之助」と名乗っていたという噂が広まりました。

さらに、旧会津藩主・松平容保の元へ原田を名乗る老人が訪ねてきたという風説や、新潟から船でウラジオストクへ密出国したというルートまで具体的に語られました。歴史学的な検証では、上野戦争時の負傷状況や本成寺の過去帳、さらには妻・まさや遺族への連絡状況から考えて、上野での戦死が極めて確実とされています。しかし、なぜこのような突拍子もない馬賊伝説が定着したのでしょうか。

【プロの結論】英雄生存伝説(貴種流離譚)に見る民衆心理と死生観

歴史社会学や民俗学の観点から分析すると、原田左之助の生存説は、源義経のジンギスカン説や西郷隆盛のロシア生存説と同質の「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」的心理が働いた結果といえます。若くして不遇の死を遂げた豪傑に対し、「あの強靭な槍の名手が銃弾ごときで死ぬはずがない」「大陸の広大な天地で馬を駆り、自由に暴れ回っていてほしい」という大衆の強い願望とロマンが、実在の馬賊の噂と結びついて伝説を形成したのです。

林 結菜

林 結菜

ライフスタイル編集者

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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