甲斐はどこ?旧国名と山梨県甲斐市の位置・武田信玄の真相を解明
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旧国名甲斐の歴史と経緯を遡ると、その地名の起源には諸説が存在します。『古事記』のヤマトタケルの東征神話にも「甲斐」の名が見られますが、言語学・地理学的な見地から最も有力視されているのが、山と山の「交ひ(かひ)」、すなわち山並みが交差して入り組んだ盆地を意味するという説です。四方を赤石山脈、関東山地、御坂山地などに囲まれた天然の城郭のような閉鎖環境が、独自の行政共同体を育む土壌となりました。
甲斐国成立の理由と真相には、古代朝廷における軍事資源の確保という国家戦略が色濃く影を落としています。甲斐は朝廷直営の牧場である「御牧(みまき)」が設置された馬産地であり、穂坂牧や真原牧などから供給される駿馬は古代国家の軍事力を支える生命線でした。盆地内部を流れる富士川水系がもたらす肥沃な土壌と、山岳によって他勢力から遮断された隔離環境は、中央政権にとっても統治の安定した直轄拠点として重視されたのです。
注目すべきは、隣接する信州との関係性、すなわち甲斐国の範囲と信濃との境界を巡る変遷です。両国の境界は、主に八ヶ岳山麓や南アルプス北端の尾根筋によって隔てられていました。しかし、戦国時代に入ると、甲斐の武田氏と信濃の諸豪族との間で激しい抗争が勃発します。信玄による信濃侵攻の足がかりとなった甲州街道の国境付近(現在の北杜市と長野県富士見町・茅野市の境界)は、軍事的要衝として幾度も緊張状態に置かれました。国境地帯に広がる八ヶ岳南麓の高原地帯は、単なる行政境界にとどまらず、両国の物資流通や軍勢の進退を左右する戦略的地政学ラインとして機能していた事実が残された古文書からも裏付けられています。