フェートン号事件の真相|長崎奉行はなぜ切腹に追い込まれたのか
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フェートン号事件の混乱の裏には、出島に暮らしていたオランダ人たちの命がけの駆け引きと、重大な職務怠慢を犯した佐賀藩の処罰劇がありました。
商館員2名を人質に取られたオランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフは、自らも捕縛される危険を冒しながら長崎奉行所に駆け込み、奉行・松平康英と協議を重ねました。ドゥーフは「相手はオランダ船ではなくイギリスの正規軍艦であり、要求を拒否すれば長崎全体が火の海になる」と正確な国際情勢と敵の軍事力を伝え、事態の沈静化に尽力しました。ドゥーフの冷静な対応がなければ、市街戦に発展して長崎は壊滅的な被害を受けていた可能性があります。
一方、大失態を演じた佐賀藩には厳しい処分が下されました。幕府は佐賀藩主・鍋島斉直に対して「100日の閉門(蟄居)」を命じ、警備責任者であった佐賀藩の家老ら数名が責任を取って切腹に追い込まれました。
この前代未聞の恥辱は、佐賀藩の歴史を大きく変える転換点となります。のちに藩主となった鍋島直正(閑叟)は、フェートン号事件の屈辱を骨の髄まで教訓とし、藩財政を再建した上で日本初となる西洋式反射炉の建設、鉄製大砲の鋳造、蒸気船の開発など、最先端の軍備近代化を断行。佐賀藩は幕末維新において、明治政府軍の主力を担う日本屈指の軍事技術先進藩へと変貌を遂げたのです。