征韓論とは何か?西郷隆盛と大久保利通の対立・明治六年政変を徹底解説

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明治六年政変によって政府から追放された指導者たちは、それぞれのやり方で大久保専制体制への対抗を試みました。この分岐こそが、その後の近代日本を揺るがす2大潮流を生み出します。

1. 武力闘争への傾斜:士族の反乱と西南戦争

地方へ戻った士族たちを待っていたのは、廃刀令(1876年)や秩禄処分による経済的特権の完全剥奪でした。不平を募らせた士族層は各地で蜂起します。下野した江藤新平を首領に担いだ「佐賀の乱(1874年)」をはじめ、「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」が連鎖的に発生しました。

そして1877年(明治10年)、鹿児島の私学校生徒らに擁立される形で西郷隆盛が挙兵し、日本最後の内戦である「西南戦争」が勃発します。新政府の近代的な徴兵軍に対し、西郷率いる旧薩摩藩士軍は激烈な戦いを繰り広げましたが敗北。西郷の自刃によって、士族階級による武力抵抗の時代は完全に終焉を迎えました。

2. 言論による闘争:自由民権運動の誕生

一方、土佐藩出身の板垣退助や後藤象二郎、佐賀出身の江藤新平(挙兵前)らは、武力ではなく言論によって専制政府を打倒する道を選びました。政変直後の1874年1月、彼らは「愛国公党」を結成し、「民選議院設立建白書」を政府に提出します。

「天下の公論を広く集める国会(議会)を開設せよ」という彼らの主張は、全国の豪農や知識人層に急速に波及し、10年以上に及ぶ「自由民権運動」へと発展。のちの大日本帝国憲法発布(1889年)と帝国議会開設(1890年)への道を切り開くことになります。

3. 朝鮮政策の皮肉な急展開

征韓論に断固反対して政変を主導した大久保利通ら内治派でしたが、わずか2年後の1875年(明治8年)、軍艦を派遣して武力衝突を誘発した「江華島事件」を起こします。そして翌1876年には「日朝修好条規」を締結させ、かつてペリーが日本に対して行ったのと同様の不平等条約を朝鮮に強要して開国させました。手法とタイミングこそ違えど、結果的に明治政府自身が朝鮮への軍事的・政治的進出を推し進めていくという歴史の皮肉がここにあります。

木村 陽翔

木村 陽翔

テックライター兼ウェブディレクター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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