原田左之助の壮絶な生涯と最期|馬賊生存説や龍馬暗殺疑惑の真相
原田左之助の壮絶な生涯と最期|馬賊生存説や龍馬暗殺疑惑の真相の全体像を丁寧に掘り下げてご紹介します。
原田左之助は天保11年(1840年)、伊予松山藩の足軽・原田長次の子として生を受けました。諱は忠一(ただかず)。青年期は藩の武家奉公人(中間)を務めていましたが、ある武士と口論になった際、「武士の作法たる切腹の仕方も知らぬ身分のくせに」と侮辱されたことに激怒。「腹を切る作法など知らぬが、腹を切る度胸ならある」と、その場で脇差を腹に突き立て横一文字に裂いて見せたという凄まじい逸話が残されています。
幸いにも傷は浅く命を取り留めたものの、腹部には生涯消えない大きな縫合創が残りました。脱藩して江戸へ出た後、谷三十郎から種田流槍術を学んで免許皆伝を受け、天然理心流の試衛館に食客として出入りするようになります。酒宴の席では服をはだけ、腹の傷跡を見せつけながら「死に損ないの左之助だ」と笑い飛ばしたといわれ、その剛胆さと豪快な人柄で隊士たちから絶大な信頼を集めました。
文久3年(1863年)、近藤勇や土方歳三らとともに浪士組として上洛。新選組の結成後は十番組組長に任命され、副長助勤として組織の中核を担います。元治元年(1864年)の池田屋事件では先陣を切って斬り込み、続く禁門の変でも最前線で武功を挙げました。十番組は突撃槍隊としての色彩が強く、十文字槍を振るう原田の姿は京の不逞浪士たちにとって最大の恐怖の的でした。