小村寿太郎はいかに関税自主権を回復したか?陸奥宗光との違いと真相

小村寿太郎はいかに関税自主権を回復したか?陸奥宗光との違いと真相とはどんな影響があるのか? 主要なファクトを整理してお届けします。

小村寿太郎がいかに関税自主権の完全回復を成し遂げたのか。その成功の軌跡を追うと、教科書的な説明では省略されがちな「3つの決定的理由」が浮かび上がってきます。

1. 陸奥条約の「12年有効期間」の満了を見据えた綿密な布石

陸奥宗光が1894年に締結した通商航海条約は、1899年に発効し、有効期間は12年間と定められていました。つまり、1911年(明治44年)に条約の満了期が訪れることがあらかじめ確定していたのです。

第2次桂太郎内閣で外務大臣に再任された小村寿太郎は、1908年の段階から条約満了に伴う全面改定の準備に着手しました。小村は1910年、各国に対して現行条約の廃棄を正式に通告し、新たな条約を結ばなければ無条約状態となり、外国製品に対して高率の法定関税が無条件で課される状況を現出させました。相手国側に「対等な新条約を結ばなければ自国の輸出企業が痛手を被る」という交渉の動機を構造的に作り出したのです。

2. ポーツマス条約を戦い抜いた小村の剛胆さと国際的プレセンス

小村寿太郎という外交官の真骨頂は、1905年の日露戦争講和会議(ポーツマス条約)にあります。ロシア側の老練な外交官ウィッテ伯爵を相手に、賠償金ゼロという過酷な国内世論の非難を一身に背負いながら、樺太南部の割譲や満洲権益の確保を成し遂げました。

帰国後に「売国奴」と罵倒され、日比谷焼打事件が起きるほどの嵐に晒されながらも、小村は国力の限界を冷徹に見定め、条約調印を断行しました。この修羅場をくぐり抜けた小村の交渉胆力と国際法への精通ぶりは、欧米列強の外交官たちからも畏敬の念を持たれていました。小村が率いる外務省との交渉において、生半可な引き延ばし戦術は通用しなかったのです。

3. アメリカを突破口に選んだ戦略と「移民問題」の現実的バーター

小村が最大の知謀を発揮したのが、交渉相手の選定と優先順位です。当時、最大の貿易相手国であり伝統的な友好国であったイギリスではなく、小村はまずアメリカ合衆国との交渉に全力を集中させました。

外務省の外交記録によると、当時のアメリカ(タフト政権)はカリフォルニア州などを中心に日本人移民への排斥感情が高まっており、対日関係の悪化を恐れていました。小村はここに着目し、新条約本文には「移民制限」の屈辱的な文言を一切入れさせない代わりに、日本側が自発的に労働者の渡米を制限する「紳士協定」を別枠で誠実に履行することを提示しました。

国家主権の象徴である条約文面の尊厳を守りつつ、相手国の実利(移民流入の抑制)に配慮するという高度なギブ・アンド・テイクを成立させ、1911年2月21日、新日米通商航海条約の調印に漕ぎ着けました。経済大国アメリカが日本の関税自主権を完全に認めたことで、イギリス、ドイツ、フランスといった欧州列強も追随せざるを得なくなり、ドミノ倒しのように完全回復が実現したのです。

山崎 陸

山崎 陸

ガジェット&アプライアンスライター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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