徳川最後の名邸・戸定邸の真実|なぜ昭武は松戸を選んだのか?
徳川最後の名邸・戸定邸の真実|なぜ昭武は松戸を選んだのか?とはどんな影響があるのか? 主要なファクトを整理してお届けします。
戸定邸の真価を理解するうえで欠かせないのが、施主である徳川昭武の数奇な運命と、当時の戸定邸歴史背景です。昭武は第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男として生まれ、わずか13歳で第15代将軍・徳川慶喜の名代として1867年のパリ万国博覧会へと派遣されました。随行した渋沢栄一らとともに欧州各国を歴訪し、最先端の近代文明と帝王学を吸収。次期将軍候補と目されながらも、滞在中に大政奉還と戊辰戦争が勃発し、急遽帰国して水戸藩最後の藩主(のち知藩事)に就任した経歴を持ちます。
明治維新後、フランスへの再留学を経て陸軍少将を務めた昭武ですが、1883年(明治16年)、甥である篤敬に水戸徳川家の家督を譲り、30歳の若さで表舞台からの引退を決断しました。その隠退の拠点として選ばれたのが松戸でした。松戸市教育委員会や現地の学芸員が保管する記録によれば、松戸は水戸藩の陣屋(宿陣)が置かれていた歴史的ゆかりの地であり、水戸街道沿いに位置するため本拠の水戸と帝都・東京の双方へ自在に往来できる要衝でもありました。
さらに決定的な要因となったのが、腹違いの兄である徳川慶喜との関係性です。昭武の自著手記や当時の日記類には、慶喜と昭武が共通して愛した写真撮影、狩猟、自転車、園芸といった先進的な趣味の記録が克明に残されています。江戸川の清流と広大な下総台地が広がる松戸の戸定丘陵は、富士山を正面に望む絶景であると同時に、川魚漁や野鳥狩りを心ゆくまでに堪能できる「理想郷」でした。隠忍自重の晩年を過ごした慶喜は、静岡から上京後、この戸定邸を幾度となく訪れ、昭武とともに暗室にこもって写真の現像に没頭したと伝えられています。政治の苛烈な権力闘争から完全に距離を置き、人間性の回復を図るための精神的聖域こそが、この松戸の館だったのです。