出浦昌相とは何者?真田丸で話題の最強素破、衝撃の生涯と最期の真相を徹底解説

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大河ドラマ『真田丸』において、視聴者に最も強烈なトラウマとカタルシスを与えたのが、第31回「終焉」から第32回「応酬」にかけて描かれた徳川家康暗殺未遂事件でした。秀吉の死後、露骨に天下を狙い始めた家康を討つべく、昌相は伏見城の徳川屋敷へ単身潜入します。しかし、待ち受けていた本多忠勝と死闘を演じ、槍で深手を負って捕縛されかけ、昌幸らの機転で辛うじて救出されたものの、一命をとりとめた昌相は二度と前線へは戻れない身体となって車椅子のような引き車で退場しました。

この劇的な展開から、ネット上では「出浦昌相はあのとき死んだのではないか」「最期は悲惨な刑死だったのでは」という疑問を持つ方が後を絶ちません。しかし、史実における出浦昌相の最期は、ドラマとは全く異なる平穏な大往生でした。

家康暗殺計画自体は創作劇としての演出であり、史料上の昌相は関ヶ原の戦いの際、父・昌幸や弟・信繁(幸村)と袂を分かって徳川方に付いた長男・真田信之(信幸)に従いました。信之は昌相の実務能力と情報網を高く評価し、領内の統治や軍備の再編を委ねています。

慶長19年(1614年)の大坂の陣の際、高齢となっていた昌相は出陣こそ免除されたものの、信之の留守を預かる重臣として本拠地を守備しました。そして元和9年(1623年)、徳川の平和が確立された江戸時代初期、松代藩の繁栄を見届けながら、78歳という当時としては稀に見る長寿を全うして静かに息を引き取ったのです。闇に生きた忍びの頭領が、乱世を最後まで生き抜き、畳の上で生涯を閉じたという事実こそが、歴史の何よりのドラマと言えるでしょう。

木村 陽翔

木村 陽翔

テックライター兼ウェブディレクター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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