徳川慶喜は何代目?最後の第15代将軍が選ばれた理由と幕末の真相
徳川慶喜は何代目?最後の第15代将軍が選ばれた理由と幕末の真相の真相や最新動向に迫る! 専門的な視点で紐解きます。
将軍職を退き、謹慎を解かれた後の慶喜は、一体どのような生活を送っていたのでしょうか。多くの歴史ファンを驚かせるのが、その「徹底した政治的無関心」と「豊かな文化人ライフ」です。
静岡での30年におよぶ「沈黙の余生」
明治2年(1869年)に謹慎を解かれた慶喜は、駿府(静岡)に居を構えました。当時30代前半。エネルギーに満ち溢れていたはずの男が選んだのは、新政府の政治に一切口を出さない完全な隠棲生活でした。
彼が熱中したのは、驚くほど多岐にわたる趣味の世界です。 当時最先端のテクノロジーだった写真撮影に没頭し、静岡の風景や人物を自ら現像して雑誌に投稿。さらに油絵、狩猟、投網、自転車、囲碁、洋弓など、好奇心の赴くままに日々を過ごしました。この姿を見て、静岡の人々は親しみを込めて「ケイキ様」と呼んだと伝えられています。
この「趣味三昧」は単なる道楽ではなく、新政府に対して「私はもう二度と権力を志向しない無害な存在である」と証明し続けるための、極めて高度な政治的防衛策でもありました。
名誉回復と渋沢栄一の執念
転機が訪れたのは明治31年(1898年)、明治天皇に初めて拝謁を許されたことです。さらに明治35年(1902年)には、徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」を新たに創設することを許され、華族制度における最高位である公爵(こうしゃく)の爵位を授けられました。「朝敵」の汚名は、名実ともに完全に雪がれたのです。
この名誉回復の裏で奔走したのが、かつて一橋家の家臣であり、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一でした。渋沢は慶喜が「部下を裏切った臆病者」として歴史に埋もれることを許さず、慶喜本人から何度も直接聞き取りを行い、大著『徳川慶喜公伝』を編纂しました。大正2年(1913年)、慶喜は76歳で死去。歴代15人の将軍の中で最も長命な生涯でした。