連合赤軍・森恒夫はなぜ暴走したのか?総括の狂気と不可解な最期の真相
連合赤軍・森恒夫はなぜ暴走したのか?総括の狂気と不可解な最期の真相についての疑問解決ガイドを徹底解説します。
森恒夫は1944年12月6日、大阪府大阪市阿倍野区に生まれました。名門である大阪府立北野高校から大阪市立大学経済学部へと進学した経歴を持ちます。少年期の森を知る関係者は一様に「礼儀正しいスポーツ青年」と口を揃えます。学生時代は剣道部に所属し、三段の腕前を持つ主将として後輩の指導にあたるなど、実直で真面目な性格として知られていました。
転機となったのは、大学在学中に激化していた学生運動への参加です。当初は剣道と運動の両立を図っていましたが、やがて学生自治会活動に深くコミットし、新左翼党派である共産主義者同盟(ブント)に接近。さらにその武闘派分派として誕生した「赤軍派」へと身を投じていきました。
赤軍派といえば、議長・塩見孝也の「前段階武装蜂起・世界革命戦争」という過激なテーゼを掲げ、大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件などを引き起こした凶暴なセクトです。しかし、森恒夫は初期の最高幹部ではありませんでした。主要リーダーが次々と逮捕され、幹部が海外へ逃亡するなかで、組織に残された「国内指導部(いわゆる三線指導部)」として繰り上がりでトップの座に就くことになったのです。
当時の赤軍派内部を知る関係者の証言によると、森は「理論的深みや天性のカリスマ性には欠けるが、几帳面で組織維持能力に長けた実務屋」という評価が定着していました。この「繰り上がりリーダーとしての劣等感と焦燥」が、後の悲劇を生み出す心理的な火種となっていきます。