戊辰戦争のタブーと知られざる闇|会津と長州の確執や埋葬令の真実

今注目を集めている 戊辰戦争のタブーと知られざる闇|会津と長州の確執や埋葬令の真実について、主要な情報をご紹介しています。

会津藩がこれほどまでに過酷な結末を迎えねばならなかった根本的な理由は、幕末の京都における政治抗争にさかのぼります。会津藩主・松平容保は、孝明天皇から絶大な信頼を寄せられ、京都守護職として治安維持の矢面に立ちました。

1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」において、御所に攻め寄せた長州藩を撃退した会津藩は、長州側から見れば「煮え湯を飲まされた不倶戴天の敵」となります。しかし、その後の政局は薩摩藩と長州藩の密約(薩長同盟)によって劇的に激変。討幕へと舵を切った薩長にとって、京都守護職として最後まで徳川幕府と天皇への忠誠に生きた松平容保と会津藩は、新時代の権力を確立するために「見せしめとして討伐すべき最大の標的」へと仕立て上げられていきました。

朝廷への忠誠を尽くした証である「御宸翰(ごしんかん)」を賜りながらも、政治的な力関係の逆転によって一夜にして「朝敵」の汚名を着せられた会津の悲運は、幕末維新の権力闘争における最も非情な側面を物語っています。

高橋 健太

高橋 健太

ライフスタイル編集者

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest