大久保利通と西郷隆盛の決別理由とは?盟友が西南戦争で激突した真相

大久保利通と西郷隆盛の決別理由とは?盟友が西南戦争で激突した真相についての真相を徹底解説します。

二人の関係が修復不能な亀裂を迎えた最大の契機は、1873年(明治6年)秋の「明治六年政変」です。当時、大久保利通や岩倉具視ら政府首脳陣は、欧米列強の進んだ法制度や軍備、産業を視察する「岩倉使節団」として約1年10か月にわたり日本を離れていました。その間、日本国内の留守政府を預かり、学制の発布や徴兵令、太陽暦の採用など重要政策を次々と実行したのが参議・西郷隆盛でした。

激突の発火点となったのが、いわゆる「征韓論」です。朝鮮との国交交渉が行き詰まるなか、西郷は自らが全権大使として単身朝鮮に乗り込むことを主張しました。西郷自身の手紙によると、その真意は軍事侵略ではなく「まずは自らが赴いて礼を尽くして説得し、もし相手が暴挙に出て殺害されるならば、そのとき初めて開戦の大義名分が立つ」という苛烈な捨石の論理でした。これに対し、欧米の圧倒的な国力格差を肌で痛感して帰国した大久保は、「内治(国内整備)こそが最優先であり、対外的な冒険に資金と軍事力を浪費すれば欧米列強の餌食になる」と猛反発します。

大久保は盟友・西郷の暴走を止めるべく、辞表を提出して政権を揺さぶり、宮廷工作を駆使して三条実美を追い詰め、岩倉具視とともに西郷の派遣決定を土壇場で覆しました。この冷徹な政治的策略に激怒した西郷は即座に参議を辞任。板垣退助や江藤新平ら多くの官僚・軍人とともに下野し、故郷の鹿児島へと帰郷しました。政治的な権力闘争として語られがちなこの政変ですが、大久保にとっては「日本が植民地化を免れるための冷酷な現実主義」、西郷にとっては「盟友に裏切られたという精神的信義の崩壊」という、埋めがたい思想の違いが白日の下にさらされた瞬間でした。

吉田 誠

吉田 誠

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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