日系人とは何者か?日本人との違いや世代の定義・過酷な歴史の真相
日系人とは何者か?日本人との違いや世代の定義・過酷な歴史の真相の背景について、最新情報を取りまとめてご紹介します。
日系人の歩みを理解するうえで避けて通れないのが、19世紀後半から始まった近代日本からの海外移住の歴史です。それは、日本国内の過疎や貧困からの脱却を賭けた挑戦であると同時に、渡航先での過酷な人種差別や戦争の嵐に翻弄された受難の道でもありました。
ハワイ移民の原点とプランテーションでの血汗
日本の集団移住の端緒となったのは、1868年の「元年者(がんねんもの)」153名によるハワイ渡航でした。さらに1885年には日本政府とハワイ王国の間で締結された「官約移民」により、山口県、広島県、熊本県などから数多くの農民がサトウキビ農園の労働者として太平洋を渡りました。
日中の猛暑下で過酷な重労働を強いられた農園では、私設警察のような監視人(ルナ)による暴力や低賃金労働が常態化していました。移民たちは辛酸を舐めながらも、作業歌である「ホレホレ節」を歌い交わして励まし合い、相互扶助組織を立ち上げてハワイ社会に確固たる生活基盤を築き上げました。
大統領令9066号と日系アメリカ人強制収容の悲劇
日系人史において最も痛ましい傷痕を残したのが、第二次世界大戦中のアメリカ本土における「日系アメリカ人強制収容」です。1941年12月の真珠湾攻撃を受け、翌1942年2月、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名しました。
これにより、西海岸に居住していた約12万人もの日系人が、敵性外国人という嫌疑を一方的にかけられ、内陸部の砂漠や荒野に設置されたマンザナーやツールレイクなど10カ所の強制収容所へと送られました。そのうち約3分の2はアメリカ生まれの合衆国市民(日系2世)でした。財産や家屋を二束三文で買い叩かれ、有刺鉄線と監視塔に囲まれたバラック生活を余儀なくされたのです。
当時の収容所を生き抜いた2世の手記には、次のような痛切な証言が残されています。
「朝起きて窓の外を見れば、銃を構えた米兵が私たちを見下ろしていた。自分が生まれ育った国から『お前は敵だ』と宣告された屈辱は、言葉では言い表せない。それでも父は『アメリカを恨むな。お前の祖国はここだ。誠意を尽くして忠誠を示せ』と静かに言った」
この言葉通り、日系2世の若者たちは自らの忠誠心を行動で示すため、米軍の志願兵部隊である第442連隊戦闘団を結成。ヨーロッパ戦線において米陸軍史上最も多くの勲章を受けるほどの奮戦を遂げました。戦後、この血を流した忠誠の歴史が、1988年の「市民の自由法(日系人への公式謝罪と補償)」へと結実することになります。
笠戸丸から始まったブラジル開拓の壮絶な現実
一方、南米ブラジルへの移住は1908年、移民船「笠戸丸」がサントス港に入港したことから幕を開けました。奴隷制度廃止後の労働力不足を補うため、781名の日系移民がサンパウロ州のコーヒー農園(ファゼンダ)へと送り込まれました。
しかし、現実に待っていたのは「黄金の実がなる木」ではなく、劣悪な住居環境、マラリアなどの風土病、そして事実上の債務奴隷のような搾取構造でした。耐えかねて夜逃げを試みる者が続出するなか、生き残った移民たちは結束して未開の原始林を切り拓き、バストスやアリアンサといった独自の開拓地を建設。荒地を緑豊かな大農地へと変貌させ、やがて「ブラジル農業の父」と讃えられるほどの信頼を勝ち取っていったのです。