ひめゆりの塔の真実と沖縄戦の悲劇|平和祈念資料館の見学ガイド

ひめゆりの塔の真実と沖縄戦の悲劇|平和祈念資料館の見学ガイドの注目ポイントを分かりやすくまとめてご紹介します。

ひめゆり学徒隊の母体となったのは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の2校です。校友会誌の名称「乙姫」と「白百合」を組み合わせて名付けられた「ひめゆり」の愛称を持つ女子生徒たちは、1945年3月23日、米軍の艦砲射撃が激化するなか、沖縄陸軍病院の看護要員として正式に戦線へ動員されました。

動員された生徒の多くは15歳から19歳の多感な少女たちでした。当初は「1週間程度で学校に戻れる」と信じ込まされていましたが、戦況の悪化に伴い、南風原(はえばる)の陸軍病院壕での任務は地獄絵図へと変わっていきます。麻酔薬も尽きかけた薄暗い壕内で、彼女たちは砲弾の飛び交うなか水汲みや食糧運搬、負傷兵の手術補助、排泄物の処理、切断された四肢の埋葬といった壮絶な作業を不眠不休で担わされました。

1945年5月下旬、首里の司令部陥落に伴い、日本軍は南部へと撤退を開始します。学徒たちも負傷兵を抱えながら激しい砲爆撃の中を南下し、摩文仁や伊原周辺の自然洞窟(ガマ)へ逃げ込みました。しかし、すでに組織的抵抗が崩壊していた6月18日、突然の「解散命令」が言い渡されます。制空権・制海権を完全に握られ、周囲を米軍に包囲された状況下での放逐は、事実上の死刑宣告に等しいものでした。

伊藤 翔太

伊藤 翔太

フード&トラベルライター

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。

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