なぜ250年耐え抜けたのか?潜伏キリシタンの真実と隠れとの違い
なぜ250年耐え抜けたのか?潜伏キリシタンの真実と隠れとの違いの真相について、分かりやすい解説を詳しくお届けします。
1858年の開国後、外国人居留地となった長崎の南山手に建設されたのが大浦天主堂(1864年末完成、翌年献堂)でした。フランスのパリ外国宣教会から派遣されたベルナール・プティジャン神父のもとへ、歴史を揺るがす出来事が訪れます。
1865年3月17日、天主堂を訪れた数名の日本人農民の中から、浦上村の女性・イザベリナ杉本百合が神父に歩み寄り、小声でこう囁きました。
「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰は、あなたの信仰と同じです)」
さらに「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたことで、司祭が250年間不在だった日本に数万人規模のキリシタンが生き残っていた事実が判明。この「信徒発見」は、ローマ教皇ピウス9世をして「東洋の奇跡」と感嘆せしめ、世界中のキリスト教界に衝撃を与えました。
しかし、直後に待っていたのは明治新政府による苛烈な弾圧「浦上四番崩れ」でした。「五榜の掲示」によって旧幕府同様にキリスト教を邪宗門として禁じた明治政府は、浦上の信徒約3,400人を拘束し、名古屋、金沢、萩、津和野など全国20藩へ流刑(配流)処分にしました。氷の上に素裸で正座させられる「責め石」や極寒の水責めなどにより、600人以上が拷問や飢餓、病気で命を落としました。
当時の欧米列強はこれに猛烈な外交抗議を展開。岩倉使節団が欧米を巡訪した際、この宗教弾圧が条約改正交渉の最大の障壁となっている現実を突きつけられた明治政府は、1873年(明治6年)2月24日、ついにキリシタン禁制の高札撤去を決定。信徒たちは苦難の流刑地から故郷へと帰還を果たしました。