板垣退助が結成した政党の全軌跡|自由党から隈板内閣誕生の真実

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板垣退助の政治人生は、権力の中枢から下野し、在野のリーダーへと転身した瞬間から大きく動き出しました。土佐藩の重臣として戊辰戦争で目覚ましい軍功を挙げた板垣は、明治新政府で参議という最高幹部の座に就きます。しかし、1873年(明治6年)の「征韓論争(明治六年政変)」で西郷隆盛らとともに下野。武力による反乱を選んだ不平士族とは一線を画し、言論と組織の力で政府に対峙する道を選びました。

板垣が最初の一歩として踏み出したのが、1874年(明治7年)1月の愛国公党の結成です。江藤新平や後藤象二郎らとともに結託し、政府に対して「民選議院設立建白書」を左院に提出しました。「天下の公論を張り、人民の通義を立てる」と宣言したこの建白書こそが、日本における自由民権運動の実質的な号砲となりました。

愛国公党自体は短期間で活動休止を余儀なくされたものの、板垣は地元・高知に戻り「立志社」を設立。さらに1875年(明治8年)には全国組織を目指して愛国社を結成します。同年、大阪会議を経て一時的に政府の参議へ復帰し、「立憲政体樹立の詔」を引き出すなど立憲制への道筋をつけましたが、専制体制を崩そうとしない政府首脳と再び対立して辞任。1880年(明治13年)の愛国社第4回大会において「国会期成同盟」へと改称し、全国から10万人近い署名を集めて国会開設を迫る巨大な国民運動へと育て上げました。

そして1881年(明治14年)、政府が10年後の国会開設を約束した「国会開設の勅諭」を発布したことを受け、板垣は同志を結集。日本初の実質的な全国政党である自由党を結党し、初代総理(党首)に就任したのです。

斉藤 蓮

斉藤 蓮

デジタルマーケティングコンサルタント

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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