県名と県庁所在地が違う理由は?旧幕府軍懲罰説の真相と全一覧

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一般の読者が最も強い関心を寄せるのが、「明治維新の戊辰戦争で旧幕府側(佐幕派・同盟派)についた地域は、県名から城下町名を奪われた」という懲罰説です。テレビのバラエティ番組やインターネット上のコラムでも度々取り上げられ、あたかも歴史的事実であるかのように語られてきました。

この説の根拠として挙げられてきたのが、「薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)の官軍側はすべて県名と県庁所在地が一致しているのに対し、仙台藩(宮城県仙台市)や会津藩(若松県を経て福島県)、盛岡藩(岩手県盛岡市)、徳川御三家の尾張(愛知県名古屋市)や水戸(茨城県水戸市)はことごとく県名を変えられている」という構図です。

しかし、歴史学研究者の調査や公文書の検証により、この「懲罰説」は学術的に完全な俗説(誤り)であることが証明されています。理由は主に以下の4つの反証事実にあります。

第一に、新政府軍の中核であったはずの側にも不一致が多数存在します。たとえば、倒幕運動を主導した薩長同盟の仲介地であり、官軍寄りであった兵庫県(神戸市)や、いち早く新政府に従順の意を示した滋賀県(大津市)、三重県(津市)は県名と市名が異なっています。

第二に、旧幕府方・会津同盟側として激しく抗戦した地域の中にも、県名と市名が一致している例がいくつもあります。長岡藩など激戦地を抱えた新潟県新潟市、奥羽越列藩同盟に参加した福島県福島市、さらには徳川御三家の筆頭格であった紀州徳川家の和歌山県和歌山市などは、いずれも都市名がそのまま県名になっています。

第三に、幕末に新政府の重鎮として地方制度を差配した大久保利通らの往復書簡や、当時の太政官記録・公文録のどこを探しても「旧幕府側への報復として名称を奪う」といった意図を示す記述は一片たりとも存在しません。

では、なぜこれほど説得力があるように見える俗説が広まったのでしょうか。社会心理学の視点から分析すると、人間は複雑な行政手続きや地道な妥協のプロセスよりも、「勝者が敗者を罰した」という勧善懲悪のドラマチックな物語を無意識に好んで信じ込む傾向(ナラティブ・バイアス)を持っています。明治新政府の苛烈なイメージと、近代の地域感情が結びついた結果、昭和後期から平成にかけて自然発生的に流布してしまった都市伝説といえます。

吉田 誠

吉田 誠

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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