攘夷派とは何だったのか?開国派との違いや倒幕へ至る真相を徹底解説

攘夷派とは何だったのか?開国派との違いや倒幕へ至る真相を徹底解説の背景について、分かりやすい解説を取りまとめてご紹介します。

言葉だけのスローガンだった攘夷が、国家を巻き込む軍事行動となったのが1863年です。孝明天皇の強い要請を受け、幕府は止む無く「1863年5月10日をもって攘夷を決行する」と諸藩に布告しました。幕府自身は言いつくろいでやり過ごす算段でしたが、最も過激だった長州藩はこれを文字通りに実行します。

長州藩は下関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦に対し、前触れもなく砲撃を開始(長州藩攘夷決行)。しかし翌年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国連合艦隊17隻による圧倒的な報復攻撃(下関戦争・四国艦隊下関砲撃事件)を受け、沿岸砲台は完膚なきまでに破壊・占領されました。

一方、薩摩藩でも1862年の生麦事件(大名行列を乱したイギリス人を護衛武士が無礼討ちにした事件)の報復として、1863年7月に英艦隊が鹿児島湾に来航、薩英戦争が勃発します。薩摩藩は果敢に応戦し英艦隊にも損害を与えたものの、鹿児島城下の大部分が艦砲射撃による火災で灰燼に帰しました。

この2つの戦争(薩英戦争と下関戦争)こそが、幕末の志士たちに「現実の軍事力・科学技術の格差」を骨身にしみて理解させる決定打となりました。手記や当時の記録によると、高杉晋作や西郷隆盛らは、海岸に林立する蒸気軍艦のアームストロング砲の破壊力を目の当たりにし、「竹槍や旧式の大砲で攘夷を叫ぶことの無意味さ」を痛感したと記されています。

小林 直樹

小林 直樹

トレンドリサーチャー

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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