「兵どもが夢の跡」の真意とは?松尾芭蕉が涙した平泉の歴史と現代語訳
「兵どもが夢の跡」の真意とは?松尾芭蕉が涙した平泉の歴史と現代語訳についての真相をご紹介します。
芭蕉はなぜ、平泉の地で笠を敷いて座り込み、時の経つのも忘れて涙を流したのでしょうか。『奥の細道』の原文を読み解くと、彼が平泉のどこに立ち、何を幻視していたのかが鮮明に浮かび上がってきます。
『おくのほそ道』の平泉の段において、芭蕉は次のように記しています。
「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野となり、金鶏山のみ形を残す。(中略)まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。(中略)国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」
芭蕉が同行の門人・河合曾良とともに足を運んだのは、北上川を臨む断崖に位置する「高館(たかだち、現在の高館義経堂)」でした。この場所こそ、文治5年(1189年)閏4月30日、兄・源頼朝の追手を逃れて奥州へ身を寄せていた源義経が、頼朝の恫喝に屈した藤原泰衡(秀衡の四男)によって急襲され、妻子とともに自害に追い込まれた「衣川の戦い」の凄惨な舞台です。
平泉には、義経を迎えて庇護した名君・藤原秀衡、そして初代清衡から続く奥州藤原氏三代が築き上げた黄金文化の遺構がありました。秀衡は死に臨み、「義経を主君と仰ぎ、兄弟結束して頼朝の侵攻を防げ」と遺言しましたが、泰衡は恐怖から義経を謀殺。しかしそのわずか数か月後、頼朝率いる大軍によって平泉は蹂躙され、奥州藤原氏百年の栄華は瞬く間に灰燼に帰しました。
芭蕉が高館から眼下を見下ろしたとき、そこにあったのは豪奢な伽藍でも堅牢な城塞でもなく、ただ静かに流れる北上川と、風に揺れる夏草の海でした。義経の無念、彼を支えて散った武蔵坊弁慶らの忠義、そして一族滅亡の道を転がり落ちた藤原氏の悲哀。500年の歳月を隔ててなお漂う英雄たちの無念の息遣いに圧倒され、芭蕉の感情は堰を切ったように涙となって溢れ出したのです。