葛飾北斎が名乗った画狂老人卍の真意と90歳の衝撃的な到達点

今注目を集めている 葛飾北斎が名乗った画狂老人卍の真意と90歳の衝撃的な到達点について、多角的な視点を分かりやすく掲載しています。

画狂老人卍としての晩年は、決して平穏な隠居生活ではありませんでした。天保12年(1841年)以降、老中・水野忠邦が主導した「天保の改革」によって贅沢品が厳しく取り締まられ、派手な浮世絵の出版が大幅に規制されます。さらに、放蕩者の孫が作った借金の穴埋めに追われ、80歳の時には長屋の火災で家財や描きためた資料のすべてを失うなど、極貧と逆境の連続でした。

その過酷な晩年を支え、共に狂気の創作に没頭したのが、三女の葛飾応為(本名:お栄)です。絵師の吉村三馬に嫁いだものの「夫の描く絵の下手さを鼻で笑った」として離縁され、実家に戻ってきたお栄は、父に劣らぬ卓越した画力を持っていました。

「江戸のレンブラント」とも称される卓越した光と影の描写力を誇った応為は、北斎の助手であり、最大の理解者であり、ライバルでもありました。散らかり放題のゴミ屋敷のような長屋で、二人は炊事も掃除も一切せず、朝から晩まで絵を描くことだけに集中したと伝えられています。北斎自身も「美人画にかけては、お栄には敵わない」と周囲に漏らしていたほどです。

版元の注文による大量生産の版画(錦絵)から、筆一本で絹や紙に直接描き込む「肉筆画」へとシフトしていった晩年。絵の具の調合や細部の彩色において、応為の存在が画狂老人卍の筆を極限まで研ぎ澄ませたことは間違いありません。

渡辺 美咲

渡辺 美咲

ガジェット&アプライアンスライター

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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