九龍城がやばいと言われた真相|東洋の魔窟の解体理由と現在の姿

九龍城がやばいと言われた真相|東洋の魔窟の解体理由と現在の姿にまつわる興味深い視点を分かりやすく発信ます。

九龍城が「東洋の魔窟」「世界で最も危険なスラム」と評された根本的な原因は、単なる貧困問題ではなく、イギリスと中国の主権の狭間に生じた「完全な統治の空白地帯」であった点にあります。この歴史的背景こそが、無法地帯と化した特異な環境を作り出す決定打となりました。

事の発端は、1898年に結ばれたイギリスと清朝の条約(展拓香港界址専条)に遡ります。清朝は新界地区をイギリスへ99年間租借することに合意しましたが、城塞として機能していた「九龍寨」には清朝の役所や軍駐屯地が存在したため、治外法権地区として清朝の管轄権が例外的に残されました。ところが翌1899年、イギリス軍が一方的に侵攻して清朝の役人を追放。これに対して清朝、そして後の中国歴代政権は一貫してイギリスの管轄権を認めず、抗議を続けました。

結果として生まれたのが、現地で「三不管(サムバッカッ)」と呼ばれた異常な統治空白です。「イギリス政府は手を出さず、中国政府も介入できず、香港警察も手出しできない」という三者不干渉のエアポケットが生じたことで、あらゆる公的規制が失効しました。第二次世界大戦後、中国本土の内戦や混乱から逃れてきた大量の難民がこの聖域に流れ込み、税金も建築確認申請もない土地で勝手に家を建て始めたことが、巨大要塞化への第一歩となったのです。

公権力が一切及ばない空間は、当然ながら地下経済の格好の温床となりました。特に1950年代から1970年代にかけては、香港の犯罪組織・三合会(黒社会)の「14K」や「新義安」といったグループが砦内部の利権を掌握。アヘンやヘロインの密売所、違法カジノ、売春宿、ストリップ劇場、無認可のドッグレース賭博などが公然と営業され、外部の警察が踏み込めない「犯罪者の逃げ込み寺」として世界中に悪名を轟かせました。

林 結菜

林 結菜

ライフスタイル編集者

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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