比叡山延暦寺焼き討ちの真相と新説|信長が決行した理由と実態
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後世の創作物では、教養人である明智光秀が信長に焼き討ちの中止を懇願し、激怒した信長に折檻されるシーンがしばしば描かれます。しかし、現存する当時の一次史料を検証すると、現実は全く逆であったことが浮き彫りになります。
光秀が焼き討ち直前に近江の豪族・和田秀純に宛てた書状(『和田家文書』)には、作戦への協力要請や、敵対勢力を徹底的に掃討する強い決意が記されています。光秀は現場の実戦指揮官として包囲網を敷き、緻密な軍事行動を指揮していました。この作戦での抜群の軍功を評価された結果、光秀は信長から近江国志賀郡(延暦寺の旧領)を与えられ、琵琶湖の要衝に坂本城を築くことになります。
被害人数に関しても、同時代の日記史料である山科言継の『言継卿記』やルイス・フロイスの報告書には誇大表現が見受けられます。死者数千人という数字は、信長が敵対勢力への心理的威圧(テロリズムによる降伏促進)として意図的に流布させた側面が強く、実態は戦闘員の掃討と拠点の物理的破却が主であったと考えられます。