丙午の迷信の真相|1966年出生率激減の理由と八百屋お七の起源を解剖

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迷信が単なる笑い話で終わらず、国家規模の統計に刻印されたのが1966年(昭和41年)の丙午です。当時の厚生省(現厚生労働省)がまとめた人口動態統計は、社会心理学上類を見ない急激な変動を記録しています。

1965年には182万3,697人(合計特殊出生率2.14)あった出生数が、1966年には前年比46万2,723人減(マイナス25.4%)となる136万974人(同1.58)へと急落しました。翌1967年には193万5,647人(同2.23)へと激しくリバウンドしており、この前後の極端なV字回復は、日本社会全体で作為的な受胎調節が行われた揺るぎない証拠となっています。

調査年度・区分出生数(人)合計特殊出生率編集部の見解・社会動態分析1906年(明治39年・前々回)約139万4,000人推計 4.50前後前年比約4%減。当時は避妊技術が未発達だったため、出生届を前後の年にずらす操作が横行した。1965年(昭和40年・前年)1,823,697人2.14第2次ベビーブーム直前の安定期。家族計画が一般化し始めていた。1966年(昭和41年・丙午)1,360,974人1.58前年比約25.4%の歴史的暴落。人工妊娠中絶の増加と避妊の徹底による計画的回避が発生。1967年(昭和42年・翌年)1,935,647人2.23出産控えの反動により前年比で約57万人急増。極端なリバウンドを記録。

明治39年(1906年)の丙午でも出生数は減少しましたが、この時代は近代的な避妊具が普及しておらず、戸籍の届出日を前年の1905年や翌年の1907年に偽装する「届出操作」が中心でした。しかし1966年の昭和期においては、優生保護法のもとで人工妊娠中絶が合法化されており、近代的な避妊手法が普及していたため、実質的な出産制限が実行されてしまったのです。

伊藤 翔太

伊藤 翔太

フード&トラベルライター

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。

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