美濃守護・土岐頼芸の数奇な生涯!道三追放の真相と名画「鷹」の謎
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美濃守護職を代々務めた名門・土岐氏は、南北朝時代以来の強大な権威を誇っていました。しかし戦国期に入ると、頼芸の父である第11代守護・土岐政房の後継者を巡り、長男の土岐頼武(政頼)派と、次男である土岐頼芸派に家臣団が二分される激しい家督争い(美濃錯乱)が勃発します。
正統な後継者である兄・頼武に対抗するため、頼芸が手を組んだのが西美濃の実力者・長井新左衛門尉とその子である斎藤利政(のちの斎藤道三)でした。近年の歴史学では、いわゆる「斎藤道三の一代での下克上」ではなく、「松波庄五郎・長井新左衛門尉」と「斎藤道三」の親子二代にわたる国盗りであったことが古文書(『春日力文書』等)の発見により定説となっています。
頼芸は道三父子の軍事力と調略をフルに活用し、大永7年(1527年)に兄の拠点を急襲。兄・頼武を越前へ追放することに成功し、享禄3年(1530年)には事実上の美濃国主の座に就きました。しかし、この勝利こそが破滅への入り口でした。自らの軍事基盤を持たない頼芸は、権力基盤を固める過程で道三への依存度を急速に深めていったのです。
実権を完全に掌握した道三は、次第に主君である頼芸を軽視し始めます。天文10年(1541年)には頼芸の実弟・頼満を毒殺。身の危険を感じた頼芸は尾張の織田信秀や越前の朝倉孝景と結んで抵抗を試みますが、道三の電撃的な軍事行動の前に屈服。天文21年(1552年)、頼芸は本拠地であった大桑城(現在の山県市)を追われ、美濃国から完全に追放されることとなりました。