「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の真実|山寺の絶唱と蝉論争を徹底解明
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この句に登場する蝉は、一体どのような種類だったのか——。昭和初期、近代日本文学史に残る白熱の論争が勃発しました。発端となったのは、精神科医であり歌人としても名高い斎藤茂吉が昭和元年(1926年)に発表した評論でした。茂吉は自身の育った山形の実体験から「この力強く岩にしみ入る蝉は、油蝉(アブラゼミ)に違いない」と主張したのです。
これに対し、東北帝国大学教授で夏目漱石の愛弟子であった文学者・小宮豊隆が異を唱えました。小宮は「あの澄み切った静寂にしみ入る鳴き声は、油蝉のような油ぎった騒音ではなく、小さく鳴き続けるニイニイゼミである」と反論。ここから文壇を巻き込む「山寺の蝉論争」が幕を開けました。
決着をもたらしたのは、科学的なデータと現地の生態調査でした。芭蕉が立石寺を訪れた「元禄2年5月27日」をグレゴリオ暦(新暦)に換算すると1689年7月13日となります。山形の内陸山間部において、7月中旬の梅雨期にアブラゼミが本格的に羽化することは生態学的に極めて稀です。さらに現地調査により、同時期に立石寺の凝灰岩の岩壁で大合唱しているのはニイニイゼミであることが実証されました。
自説の誤りを悟った斎藤茂吉は、昭和7年(1932年)の自著において「小宮氏の言ふ如く、ニイニイゼミであつた」と小宮説の正しさを認め、潔く自説を撤回しました。偉大な歌人が自らの誤りを率直に受け入れたこの逸話は、学問的誠実さを示す美談として今なお語り継がれています。