五箇条の誓文の真相!教科書では語られない発布の理由と五榜の掲示との違いを解説
五箇条の誓文の真相!教科書では語られない発布の理由と五榜の掲示との違いを解説の要点や背景をコンパクトにまとめました。全体像を一目で把握できます。
五箇条の誓文が出された1868年(慶応4年/明治元年)3月14日は、明治新政府にとって極めて不安定な時期でした。京都では王政復古の大号令が出されたものの、東日本には依然として強力な旧幕府勢力が残っており、まさに江戸無血開城に向けた交渉が行われていた真っただ中です。
新政府が直面していた最大の危機は、財政難と「薩摩・長州による私的な権力奪取ではないか」という全国諸藩からの根強い疑心暗鬼でした。この不信感を払拭しなければ、内戦に勝利することも、新しい国家を建設することもできません。
そこで新政府は、「誰が誰に向けて」発信するかという形式を周到に練り上げました。幼少の明治天皇が神々に誓う(神前誓祭)という体裁をとり、集まった公卿や諸侯(大名たち)がそれに署名・賛同する形を採用したのです。これにより、「これは薩長の独断ではなく、天皇と全諸侯が神前で約束した天下の公道である」と正当性を主張することに成功しました。
さらに、第四条や第五条に盛り込まれた「陋習の打破」と「智識を世界に求める」方針は、欧米列強に対する強烈なメッセージでした。「新政府は盲目的な攘夷(外国人排除)を行わず、国際法規を守って開国する近代政権である」と示すことで、列強からの外交的承認と中立を確保する狙いがあったのです。