足尾銅山と田中正造|命を懸けた直訴の真相と谷中村廃村の知られざる歴史
足尾銅山と田中正造|命を懸けた直訴の真相と谷中村廃村の知られざる歴史に関する専門家の意見を分かりやすく解説いたします。
直訴によって世論の同情が高まり、学生やキリスト教関係者、知識人による支援運動が全国へ広がりを見せました。しかし、政府が下した決断は、原因企業への抜本的規制ではなく、信じがたい「隠蔽工作」でした。下流に巨大な貯水池を造り、銅山から流れる鉱毒混じりの洪水を一帯に滞留させて沈殿させようという、いわゆる遊水地計画です。
その犠牲の標的にされたのが、栃木県下都賀郡に位置していた谷中村でした。谷中村は渡良瀬川と思川、巴波川が合流する肥沃な湿地帯にあり、豊かな水田と漁業によって栄えていた平和な集落でした。しかし、反対運動の急先鋒であった谷中村を沈めれば、やっかいな農民運動の拠点を解体できるという政治的思惑も働き、村は「治水のための遊水地」として選定されてしまったのです。
田中正造はこの暴挙に激怒し、1904年(明治37年)、63歳にして全財産を投げ打ち、自ら谷中村に移住しました。正造は村民とともに生活を送り、強制買収に応じないよう説得を続け、法廷闘争や抵抗運動の先頭に立ちました。政府は村役場を隣村に強制合併させて機能を奪い、小学校を廃校にし、堤防を切り崩して人為的に洪水を村へ導くなど、兵糧攻めとも言える過酷な兵法で村民を追い詰めていきました。
そして1907年(明治40年)6月、ついに土地収用法に基づく行政代執行が強行されます。数百名の警官隊と土工が村を取り囲み、抵抗する村民の悲鳴が響き渡る中、代々守り継がれてきた家屋や寺社が次々と破壊されていきました。家を失った村民の多くは、政府が斡旋した北海道サロマベツ(現・佐呂間町)の原野などへ移住を余儀なくされ、極寒の地で塗炭の苦しみを味わうことになります。それでも正造と十数戸の頑強な残留村民は、破壊された残骸の中に小屋を建て、そこに踏みとどまり続けました。
こうして造られたのが、現在の渡良瀬遊水地です。広大な面積を誇り、上空から見ると美しいハート形をしていることから、今では多くの観光客やバードウォッチャーが訪れる名所となっています。しかしその穏やかな水面とアシ原の地下には、国家の近代化政策の犠牲となって消滅させられた、ひとつの村の無念の記憶が埋もれています。