沖田畷の戦いの真相|龍造寺隆信が島津家久に敗れた勝因と死因
沖田畷の戦いの真相|龍造寺隆信が島津家久に敗れた勝因と死因にまつわる興味深い視点を詳しく紐解きます。
1570年代後半から1580年代初頭にかけての九州は、豊後の大友宗麟、薩摩の島津義久、そして肥前の龍造寺隆信が覇権を競い合う「九州三国志」の時代を迎えていました。1578年の「耳川の戦い」で大友氏が島津軍に大敗して衰退すると、龍造寺隆信は北九州から中九州へと急速に勢力を拡大し、肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・肥後の一部を制圧して「五州二島の太守」と恐れられる存在へと上り詰めます。
しかし、拡大を急ぐ龍造寺氏の強権的な支配体制は、傘下の国人衆に強い反発を生んでいました。その筆頭が、島原半島を本拠とするキリシタン大名・有馬晴信です。隆信の過酷な軍役要求や人質要求に耐えかねた有馬晴信は、龍造寺氏から離反し、南九州から勢力を伸ばす島津氏に救援を要請。これに対し、島津義久は知略に長けた末弟・島津家久を総大将として島原へ派遣しました。
島津の介入を知った龍造寺隆信は激怒し、有馬・島津連合軍を一挙に殲滅すべく、自ら大軍を率いて島原半島へ出陣。こうして九州の命運を分ける決戦の火蓋が切って落とされました。