米ゼロの極寒でなぜ大名に?松前藩が生き残った「独自交易」と激動の真相
米ゼロの極寒でなぜ大名に?松前藩が生き残った「独自交易」と激動の真相の真相や最新動向に迫る! 専門的な視点でまとめました。
松前藩の領内支配と収益構造は、他藩の農政とは完全に異質でした。米が取れないため、藩士に対する給与システムも独特の進化を遂げることになります。
初期に採用されたのが商場知行制(あきばちぎょうせい)です。これは藩主が家臣に対し、特定の河川流域や沿岸地域(「商場=場所」)でのアイヌとの交易権を割り当て、藩士自らが船を仕立てて交易を行い、その利潤を給与(知行)とする仕組みでした。しかし、寛文期を過ぎると貨幣経済が浸透し、武士が自ら交易を行う非効率さや借財の増加が深刻化します。
そこで18世紀初頭から導入されたのが場所請負制(ばしょうけおいせい)です。藩や家臣は、自力での交易をあきらめ、場所の経営権を近江商人や越後商人などの有力豪商に請け負わせる契約を結びました。商人は毎年「運上金(うんじょうきん)」と呼ばれる莫大な冥加金を藩に納める代わりに、その場所での漁場経営と交易権を一手に掌握したのです。
この経済システムを全国規模の物流へと押し上げたのが、日本海を往来した北前船交易でした。蝦夷地で獲れた鰊(ニシン)から作られる「締め粕(魚肥)」は、上方や西日本の綿花・菜種・藍の栽培に不可欠な最高級の肥料として飛ぶように売れました。さらに、昆布や干魚、俵物は長崎を通じて清国への輸出品(抜荷・公式貿易)となり、幕府の対外経済をも支える柱となったのです。